ロボズラー山梨<桜>探訪 市川三郷へ

ちょこっと、山梨県・市川三郷町に寄ってみました。

市川三郷町は比較的早くから開けていた地域で、古代甲斐国の支配級の古墳とされる甲斐銚子塚古墳と同じ曾根丘陵にある大塚古墳、エモン塚古墳、伊勢塚古墳、鳥居原狐塚古墳が大塚古墳群を形成し関係性が窺えます。天永年間(1110~13)には甲斐源氏の祖とされる新羅三郎義光の3男源義清が市河庄、青島庄の下司となりこの地に居館を築いたとされます。中世は一条氏が支配し、武田家政権下では一族である信龍が一条氏の名跡を継ぎ、信玄配下の副将に位置づけられ武田家滅亡の際にも居城である上野城(一条氏塁跡)に立て籠もり、侵攻する徳川家と対立し戦死したと伝えられています。江戸時代に入ると天領となり明和2年(1765)には紺屋町陣屋(静岡県静岡市)の主張所として市川陣屋が設けられ3万石から7.5万石程度を支配しました。明治維新後に一時市川陣屋に県庁が設置され市川県が立県し県庁所在地となりましたが、その後、甲斐国内の他の県と合併し甲府県となり、さらに山梨県となっています。

市川三郷町のセブンイレブン

花火の町なので……

マンホールもこんなデザインです。

神明の花火と云えばーーー

神明の花火<1> トレイントレイン甲府駅から市川大門へ

神明の花火<2> 夜空を焦がしたメッセージ花火の思い

神明の花火<3> 美しい絵物語 観客と花火師の心の交流

店先に、ネコ発見!!惹きつけられました。

商店街のそれぞれの店先には、

桜が生けられていました。

氷屋さんです。

この建物は明治30年(1897)に建てられたもので、

木造平屋建て、マンサード屋根風の腰折屋根、桟瓦葺き、妻入り、基礎は石積み、外壁は大壁造り白漆喰仕上げ、建築面積91㎡。縦長の上げ下げ窓の採用や正面入り口上部にファンライト風(半円形の欄間)の意匠などに当時の洋風建築の要素が見られます。

市川教会は明治時代に建てられた数少ない木造洋風教会建築として貴重な存在で「国土の歴史的景観に寄与している」ものとの登録基準を満たしている事から平成9年(1997)に国登録有形文化財に登録されています。

この市川教会は、明治時代の藤村紫郎県令が在職中に山梨県内の各地に建てさせた擬洋風建築「藤村式建築」の末期というか、衰退期の建築になります。
旧市川大門町でキリスト教の布教が始まったのは古く、明治15年(1882)とか、
この教会堂は、渡辺沢次郎氏が同家の敷地と建築費を献納し、
有志からの献金で建てられたものだそうです。

山梨県内各地では、毎年4月に「おみゆきさん」が行われます。

「おみゆきさん」とは、

「神仏または天皇の座を他の場所に移すこと」を意味する「御幸(みゆき)」の俗称です。この「御幸」に敬意と親しみを込めて「おみゆきさん」と呼ばれるようになったとも言われています。

山梨県内には「甲州三大御幸」とよばれるものがあります。

「西御幸」

南アルプス市下宮地の神部(かんべ)神社から、上宮地の八幡神社に御幸をし、翌日戻り、五穀豊穣などを願います。およそ800年の歴史があります。

「川渡り御幸」

市川三郷町の表門(うわと)神社から御崎(みさき)神社に御幸をし、水防を祈願します。

「大御幸」や「三社御幸」

今からおよそ1200年前、淳和(じゅんな)天皇が釜無川の水難を防ぐため勅使を下し、行われるようになったと言われています。笛吹市の一宮浅間(あさま)神社、二宮美和(みわ)神社、甲府市の三宮玉諸(たまもろ)神社の神輿が、甲斐市の信玄堤にある三社(さんじゃ)神社をめざす「大御幸」や「三社御幸」などと呼ばれる水防を祈願する御幸です。

神輿の担ぎ手は紅やおしろいで女装し、「そこだい・そこだい」の独特の掛け声をあげながら、堤を踏み固める動きをして進みます。

そんな「川渡り御幸」ーーー

市川三郷町内で、毎年4月の第一日曜日に開催される「御幸祭」(おみゆきさい)。
御幸祭は、約800年以上前から続く祭りで、市川三郷町上野に鎮座する表門(うわと)神社から同町の市川大門・御崎神社まで神輿が練り歩きます。途中に川を渡るのが特徴で、20代から30代の独身男性が潔く担ぎます。
その姿は迫力満点で、まだ冷たい川を20人~25人で気合を入れて渡る姿に、多くの観客が魅了します。

御幸祭の起源は平塩の丘(現在の市川大門地区)に源義清が住居を定めた後に、表門神社の祭神を館に招いたのが初めとされ、平塩の館がなくなった後は御崎神社まで渡御することになったそうです。
川渡りは八之宮親王が橋の上で御輿の渡御をご覧になっていたため、遠慮して川に入ったのが初めとされているそうです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする