昨日のTBS系『ぴったんこカン・カン スペシャル』は、
”旅立ち…さよなら市原悦子さん
大好きな樹木希林さんとのぶらり旅
…笑って泣ける奇跡の一日再びラスト、
朗読6分27秒
あなたの声は永遠です”
「むか~し、むか~しのことじゃった……」の
優しい声と独特の語り口で、
お茶の間に日本の昔話を届けてきた女優の市原悦子さん。
「家政婦は見た!」シリーズをはじめドラマ、舞台などで活躍し、
多くのファンに愛され
今月、82歳で亡くなった。
市原さんが難病に襲われ活動を休止したのは、2016年11月のことだった。
「それまで健康だったのに、急に手足のしびれや痛み、かゆみや寒気などが発生して、市原さんはパニックになりました。救いようのない症状に“もうダメだ”と絶望して、錯乱状態で入院した彼女は、当時のことをほとんど覚えていないそうです」(市原さんの知人)
病名は「自己免疫性脊髄炎」。
南相馬市立総合病院脳神経外科の嶋田裕記医師によれば、
「何らかの原因で体内の抗体が自分の体を攻撃して、脊髄に炎症が起こる難病です。イメージとしてはリウマチに近いが、症状はかなりつらい。手足が動かなくなったり、麻痺や感覚障害、排尿や排便に支障が出ることがあります。薬物投与とリハビリが治療の中心で、まず強力な薬で炎症を抑え、その後、再発を防いでいきます」
一昨年夏前に、市原さんはリハビリ専門病院から退院して自宅に戻った。外出の数は極端に減ったという。その後の体調も芳しくなく、決定していた昨年のNHK大河ドラマ『西郷どん』のナレーションも一昨年11月に降板した。
昨年春からテレビ番組のナレーションで復帰した。
今年、再入院したが、
その時も病室に台本を持ち込み、
仕事の準備を怠らなかったという。
最後まで女優魂を燃やし続けた市原さん。
役作りについて
「演技に対してうぶで、純でありたいと思っています。
それには稽古に徹するしかない」
「目の前の課題に、無心で、真心で取り組むことにより、
必ず新しいなにかが生まれます」と。
常に「今」を見つめていた。
過去の成功や挫折にとらわれず、
未来を思い煩うことなく、
ただ目の前の課題を見つめ、
全力でぶつかっていく。
その繰り返しの中に自身の成長と向上があり、
人生の豊かな実りもある。
番組の中で市原さんは云う、
心を寄せること
技術ではなく、心根
樹木葬
”風になり、土に帰り、木に生まれ変わる”
生前、緑が好きだった市原さん。
モンステラなどの10数種類の観葉植物で囲まれた祭壇は、
緑でいっぱいになりました。
「森の中で眠っているようなイメージ」を再現したといいます。
淡い緑色の棺には、台本を読むときに使っていた眼鏡や愛用の手鏡などの私物や、
市原さんの写真集と著書が4冊ずつ納められました。
無宗教のお別れのため、戒名はありません。
告別式の会場では祭壇の脇にモニターが設置され、
市原さんが出演した作品の映像が流れました。
テレビ朝日系『家政婦は見た!』シリーズでは、
決めぜりふ「ごめんくださいませ~」を絶叫する場面も。
実は、
博士も「家政婦は見た!」に出演の経験があり、
その際、生市原悦子さんを見た(笑)
物を大事にされる方で、
愛用の手鏡はを何度も修理して使っていると聞いていた。
その手鏡を使っている姿も見ることができた。
その「家政婦は見た!」は、
時々、地元のテレビ局で再放送されるため、
忘れた頃になると、
「小芝居してたね」と誰かしらに云われるのが度々だった。
樹木希林さんは、
「桜座」の何周年だったかに来てもらったことがある。
その後、ちょっとした騒動が起きた。
翌月の「桜座スクエア」の表紙に登場してもらったが、
その内容に関して、
樹木希林さんからクレームが来たと云うのだ。
「直接、お詫びに行きます」というと、
「混乱するからそれには及ばない」と急にその人が慌てだした。
人づてに聞いた話では、
クレームをつけてきたのは、
樹木希林さんではなく、
一緒に載っていたその人だったらしかった。
かなり名の知れた方だったので、
まさかとは思ったが、
表現者には表現者の複雑なものがあるんだと思った。
そんな複雑なものに巻き込まれながらも、
たくさんの人のお陰で
「桜座スクエア」が、
12年も雑誌が続いたのは奇跡としか言えない。