『武田氏と真田一族』歴史講演会。
質疑応答で、「なぜ武田家が滅んだのか?」に対し。
一般的には、「長篠の戦い」が原因のように云われているが、
当時の武将達はあまり気にしていなかった。
事実、その後も領土の拡大を続け、
5年後の天正8年、
武田の領土は最大になった。
ついに、日本海に到達!!
いよいよ武田の領土が日本海にまで到達し、
甲州人としてはワクワクしてしまうのだが、
ここから1年の間に、急激に武田の情勢が悪くなった。
ターニングポイントは、「高天神城の戦い」。
援軍が送れなかった武田勝頼の声望が致命的に低下した。
織田信長の策略だった。
「なぜ武田家は滅んだのか?」。
「高天神城の戦い」の他に上げられたのは、
甲相同盟の破綻。
勝頼自身は、
上杉・北条との三国同盟を望んでいたが、
そのチャンスも何度かあったが、
実を結ばなかった。
……結局、運がなかった。
鉄砲伝来は1543年。
「川中島の戦い」は、その10年後に起きている。
この時既に、武田軍も200丁の鉄砲を所有していた。
問題は、弾と火薬。硫黄は温泉があるくらいだから自給できたが、
硝石は輸入に頼っていた。
武田領内は金山はあったが、
鉛がなかった。
寺社から賽銭を借りて、それから作った。
「桜座スクエア」H29年2月号より
先日、『武田氏と真田一族』。
「真田丸」の時代考証を担当した平山優氏の歴史講演会を聞いた。
真田一族は、
山梨県と深い縁に結ばれていた。
真田昌幸は七歳で人質として甲府に差し出され、
すぐに武田信玄の眼にとまり、
近習に抜擢され、
英才教育を受けて育った。
真田昌幸は、二十年以上を信玄・勝頼の側で過ごした。
その生涯は甲州時代の方が長い。
息子信之・信繁らも甲府で生まれた。
彼らの青春は、
ここ山梨にあった。
“山梨こそ真田のふるさと”だ。
武田のDNAは、
真田一族に受け継がれ、
天下人・徳川家康を追い詰めた。
武田なくして真田がなく、
ある時期から、
真田なくして武田もなかった関係にあった。
これは、観光立県・山梨とすればチャンスであり、
“しめたものよ~”のハズだったが、
残念ながら昨年もその動きが見られなかった。
行政などに「『真田丸』は、上田の話だ!」という意識が働いているようだ。
(江戸時代の天領で、地域の意識が変わったと指摘する人もいる)
観光客誘致や知名度を上げるチャンスをみすみす逃している姿に平山氏も
「山梨は観光が下手だ」と強く指摘している。
このコーナーでも何度も指摘してきたので、
我が意を得たりという感じだった。
歴史に関して山梨県民でも知らないこと、誤ったイメージがあり、
武田と真田は、知れば知るほど、
実は面白い。

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