武田勝頼の話など

大国が滅びる時は本当にあっけない。

何が一番の原因かは、

一言で言い切れない。

平山先生曰く、

【なぜ人間は戦争をするのかを

解き明かしたくて歴史学者になった。

死んだ祖父(ニューギニアのヌンホル島で戦死)を思って泣く母と

武田勝頼の悲劇が

自分を歴史学の世界に誘った。

しかし情けないことに、

なぜなのかは今も解き明かせない。】

勝頼は生まれながらにして、

諏訪の人だった。

他の兄弟は、

まず武田に生まれ他家へ行っている。

そこからして勝頼の特異性がある。

勝頼の滅亡を決定付けたのは、

高天神城を救えなかったこと。

勝頼は諏訪から見たら武田の人間

武田から見たら諏訪の人間という

とても中途半端な立場にあった。

伊奈四郎と呼ばれても、

彼が諏訪を統治することはなかった。

駿河攻めの頃から武田勝頼となるが、

信玄が死んだため、

重臣たちとの関係をうまく築けないまま当主となった。

勝頼は、

【風林火山】の旗を使えない

「法性の兜」はかぶってもいいけど、

信勝に譲ることなどの遺言。(信勝は信玄の嫡孫だからオッケー)信玄にとって勝頼は、死ぬまで諏訪の人間だった。

勝頼を最後まで縛ったもの

それは信玄の遺言だったのかもしれない。

諏訪大社は、武田信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に「諏訪法性兜」をかぶって出陣したと伝えられる。

大河ドラマ「真田丸」でも、

勝頼のシーンに、【風林火山】の旗はなく、

あったのは、【大】の旗。←諏訪大明神の【大】の旗。

足利義昭による甲相越の三国和睦をめざすも、

謙信公が「勝頼とは和睦していいけど、

氏政とは絶対ヤダ!謙信が死んでもヤダ!

義昭様に義絶されてもヤダ!」

しかし勝頼は生まれながらにして諏訪の人間だということがついてまわった。

甲斐国主であるのに、諏訪の人間である。

これが勝頼を滅亡に追いやった悲劇の原因だった。

勝頼は今まで暗君として扱われてきたが、

武田の滅亡を資料で追ってみると

全く違った一面がみえた。

勝頼は佐竹ら北関東の人々と結び、

北条包囲網をつくる。

勝頼は、天正8年末の段階で武田家最大の領地を得た。

つまり、

長篠敗戦後から転げ落ちるように滅びたというのは間違い

焦った氏政が徳川、織田と同盟。勝頼包囲網をつくってしまった。

これが徳川に高天神城を攻める大きな力を与えてしまった。

高天神城は今は内陸にあるが、

昔は内海が広かったので、陸路ではなく、

海路によって維持される城だった。

城主の岡部元信は武田水軍を率いていた。

勝頼は高天神城を救うためにうごく。

それが信勝に家督を譲り隠居し、

織田との改善を目指すことだった。

しかし信長は和睦をするつもりなんかなく、

うまくいっているように噂を流していた。

天正9年、高天神城が陥落。

天正10年、木曽義昌が謀反。

天正10年2月14日の浅間山噴火。

東国では、古来から浅間山噴火は不吉の表れとされていて、

政変が起こると信じられていた。

これで勝頼を支える人がいなくなってしまった。

大河ドラマ「真田丸」では、

新府城で浅間山噴火を見るシーンがあったが、

本当は新府城からは見えない。

大河ドラマで平勝頼様が「私は甲斐を捨てられぬ」と言ったのは、

信玄死後の甲斐国主が、

国を離れるわけにはいかないという自負。

ちなみに義昭をバックアップしたのは毛利。

勝頼は甲相同盟を結び、

甲越和睦することにより力を得た。

北条夫人が輿入れされ、

織田徳川への攻撃を天正6年に予定するも、御館の乱で阻まれる。

つくづく運のない勝頼

ここで中立を保ったがために、

氏政にいちゃもんをつけられる。

真田丸に登場した、

大角 与左衛門(おおすみ よざえもん)は、実在した。

豊臣秀頼の代の大坂城の台所頭。

豊臣秀吉の代に台所で魚や鳥などを洗っていた下男を取立て料理人を申付け、その後、料理人の頭となり秀頼の代になると台所頭となった。

1614年の大坂冬の陣では、秀頼の母(淀殿)によって和睦交渉の使者として徳川家康の陣取った茶臼山に赴いた。1615年の大坂夏の陣で、この与左衛門が謀反して5月7日に自分の手下に言いつけ大台所に火を付させたという。与左衛門は、この謀反の働きを御奉公だと申し立て旗本に召出されたい、と願っている内に病死した。家康は「元々下男だった者だが太閤の恩を得た奴である、恩知らずの不届者で憎い奴」と評した

「真田丸」三谷幸喜が、その存在をもっと早く知っていれば…早くから使いたかったそうです。

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