ストリート ピアノに誘われて

そんなワケで、

24時間テレビの控室を抜けて、

甲府駅北口ペデストリアンデッキに向かいました。

“ストリートピアノ”をご存知ですか?

甲府駅北口ペデストリアンデッキでは、

『山梨ストリートピアノin甲府』が開催中(1ヶ月間の限定設置)。

昨日は、サクライザー・桜牙と邪鬼礼威子と夕月くんとピアノを弾きに。

ご通行中の皆さん、お騒わせしました。

甲府駅北口ペデストリアンデッキの『山梨ストリートピアノ』

サクライザーの悪役・邪鬼礼威子は、

厳粛な空気の中、

魔玄一族の課題曲「ネコふんじゃった」を高らかに奏でた。

おっと、その後ろにいるのは……(笑)

※サクライザーの主人公・桜井ケータです。念のため。

夕月くん、サクライザー・桜牙、邪鬼礼威子の順でピアノを弾く。

こうなると、博士も弾けという流れに。

そこで博士は、いつもの「バイエル」ではなく、

「カエルの歌」を夕月くんの指導のもと弾く。

「カエルシール」も貼ってきましたよ♪サンキュー・夕月!

甲府駅北口ペデストリアンデッキの『山梨ストリートピアノ』

次から次へと、弾き手が現れる。

小さな男の子が、楽譜を持参して来た。

ところが、風で楽譜が飛んでしまう。

すかさず、邪鬼礼威子と博士が楽譜の両脇を押さえる。

不思議な絵ずらの中、少年は弾ききって嬉しそうな笑みを。

A4サイズを3枚くらいつなぎ合わせた楽譜でした。

風で舞い上がったのは、想定外でした。

曲名は、クラッシックの曲でしたが、

タイトルが読めませんでした。

楽譜には、様々な書き込みがなされ、練習の跡がありました。

ツマミグイライフ’19 さん

詳細をありがとうございます ストリートピアノで弾くために日頃使っている楽譜を持ってきて成果を披露したかと思ったら胸が熱くなります…(/ _ ; ) 博士たちに助けられたことが忘れられない思い出になりますね

さんに、リツイートされました。

Kawai Pianos Global

@Kawai_Global

The official twitter for the head office of Kawai Musical Instruments Mfg. Co., Ltd (Kawai Pianos Global). 河合楽器製作所本社公式Twitterです。

200 Terajima-cho, Naka-ku, Hamamatsu-shi, Shizuoka Pref., 430-8665, Japan
KAWAIさんのツイッターを見ると、
高級感漂うKAWAIのグランドピアノの中に、
ストリートピアノのサクライザー関連の画像があるのは……
心が震える。
『山梨ストリートピアノ』は、
(8/31)が最終日です。
14時からファイナルイベントがあるので
自由に弾けるのは14時頃までだそうです。
山梨とピアノにまつわるエピソードといえば、
やはり、
根津ピアノを忘れちゃいけない。
根津嘉一郎は、1860年に甲斐の国東山梨郡聖徳寺村に生まれた。1860年と言いますと江戸時代の末期、明治維新の真っ只中で、嘉一郎が生まれる3月前には、桜田門外の変が起こっています。
生家は「油屋」という屋号で油や雑穀などを扱う商家でした。嘉一郎は寺子屋で師匠が留守のときはその代理を務めるほど勉強ができ、江戸に出て勉学に励むことを望みましたが、家の跡取りとしてそれは許されませんでした。明治13年、21歳のときに家出同然に東京に出ましたが、やはり学業途中で故郷に連れ戻されました。
その後の嘉一郎は自由民権運動の中、地方政治に関心を持ち、政治家を目指すようになります。県会議員になると、土木業者と県当局の癒着を暴露して、当初の予算の3分1で工事を達成させるなど大活躍をします。その後村長に立候補して当選します。ある年、豪雨が続いて笛吹川が氾濫したときには、村のご神木を伐採して水を防ぐことを決断し、そのとっさの判断が村を救ったこともありました。
そうした中で同じ郷里の先輩であり、横浜開港を機に生糸や綿製品などの貿易を手がけて大成功を収めた人物、若尾逸平との出会いは大きな転機となりました。若尾逸平は嘉一郎に「乗り物」と「灯り」の株を勧めました。乗り物とは「鉄道」、灯りとは「電力」のことです。「鉄道と電力」は明治時代の事業の中心で、韮崎市出身の小林一三も関西で鉄道事業を起こし、後に電力業界に転じています。
嘉一郎はまず東京電灯(今の東京電力)の株を買占めていき、若尾逸平や雨宮啓次郎と組んで甲州財閥連合を作り、明治29年には東京電灯の経営権を手にします。その手腕を見込まれて、経営が破綻しかけていた東武鉄道の社長に就任し、見事に再建を果たします。東京の都心から日光まで電車を走らせるという夢を実現し、日光の参拝客をそれまでの3倍以上に増やすことに成功しました。
その後も東京鉄道、南海鉄道、西武鉄道、秩父鉄道などの取締役に就任、富士身延鉄道、南朝鮮鉄道を設立するなど、経営に関与した鉄道会社は24社におよび、「鉄道王」と呼ばれました。日の出セメント、東京紡績を設立、館林製粉、日清製粉の社長も務め、また衆議院議員にも当選しています。
けれどもこのような経済人としての並外れた手腕を発揮するだけでなく、明治の経済人の多くが持っていた、「お金儲けよりも、人々のためになること、社会奉仕の精神が大切である」という考えを嘉一郎も持っていました。「公共事業の実現を夢みながら、文化人としても超一流」というのが、明治の経済人の理想でした。小林一三は宝塚歌劇団を創設しましたが、根津嘉一郎は武蔵高等学校(現在の武蔵大学)を創立。また優れた美術品収集家、茶人でもあった嘉一郎が収集した多くの東洋古美術品は、後世への大きな遺産となりました。嘉一郎が亡くなった昭和15年、港区青山の邸宅内の自然庭園と四棟の茶室とともに、それらの美術品を元に根津美術館が設立され、今日に受け継がれています。私立美術館としては多数の国宝、重要美術品、重要文化財を保有するわが国有数のコレクションであり、現在も多くの人々を楽しませています。
このような根津嘉一郎の文化事業の一つに昭和8年、嘉一郎72歳のときですが、愛する故郷山梨の未来を担う子どもたちへの数々の贈り物がありました。人体模型、顕微鏡、ミシン、そして全県下の小学校に贈られた200台のピアノです。山奥の小学校へは、ピアノを運ぶために、道路を切り開いてまでして運んだ。私は、そこに執念のようなものを感じている。当時のお金で一台約600円(現在の金額で約300万円と考えられる)200台のピアノが、甲府の駅に到着したときも内藤楽器さんが関わっていた。
全ての小学校にあったということは、ある種の年代の山梨県人はみな、根津ピアノの音色を聴いていることになる。

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